P S Y C H O K R U S H E R : H O R R O R


恐怖新聞 5th シーズンス


#05:慰霊の森




人の世はかくはかなきか

笑顔にて送りし人は

今や影なし


夏草も面て背けん

なきがらに

昨日にかわる 今日の姿は




とき、昭和四十六(1971)年七月三十一日午後二時五分頃、
緑の山々に囲まれた平和で豊かな田園のまちここ雫石の空に突如轟音とともに全日本機58便727型機と航空自衛隊第一航空団松島派遣隊所属F86ジェット戦闘機の空中衛突事故が発生、北海道からの帰途乗客(一六二名の尊い命が(一瞬にしてつゆあけの夏空に散った。

事の起こりは昭和46年7月30日、長かったつゆ空もようやく回復し久しぶりの快晴となり、真夏の太陽がじりじりと地肌をてりつけていた。午後2時過ぎ、実如一大音響があり、びっくりしてふり仰いだ空では太陽の光を受けて無数の断片が煙の尾を引きながらキラキラと東方に降り落ちるのが認められ、また町の中心部である市街地から僅かに外れた通称"南田圃"に飛行機の胴体部分が落下し、その他の破片も数か所に落下、その内の一つは町役場近くの民家に落ち星根から一直線に居間に突き抜けた。その内搭乗員かと思われる者が機体の落下した同じ"南田圃"の東方に降下した。このような状況から当初は、自衛隊機の墜落事故と思われ、町消防団本部所属の自動車ポンプが救助のため搭乗員降下地点に出動した。しかし、問もなく臨時ニュースにより、岩手県の上空で自衛隊機と全目空旅客機の衝突事故が発生したこと。

午後3時、対策本部の設置
このような状況から当町内において重大事故が発生したものと推定され、町長はただちに町消防団に対し遭難対策のための出動を要請すると共に町役場に「航空機事故遭難対策本部」を設置することととし、全職員、全関係機開がそれぞれこの対策に当るよう指令した。

午後4時
当初遺体発見場所が昨年度林業構造改善事業により開設された岩名目林道付近であったが、その後の報道により秋田県八幡平村、紫波郡失巾町においても遺体が発見されたとの情報も入り非常に広範囲な散乱も予想されたが、次々に入る目撃者の情報により、町内東南部、岩名目沢、前の山、妻の神沢付近一帯が主要地域と推定されたので現地付近の安庭小学校に現地対策本部を設けると共に同校をこの対策のため全面供用することを決定した。

ニュースが伝わるや世界航空史上最大の事故となった墜落現場を一目見ようと西に走る者、東に走る者、また、安庭部落を経て町場部落に行こうとする者、引き返す者等で国道46号線を始め主要道路はたちまちマヒ状態となり、警官、交通指導員の懸命の交通整埋の間をぬって、消防自動車やパトロールカーがけたたましいサイレソを鳴らして行きかい、町内は騒然となり町一ぱいに緊迫感がみなぎった。
現地対策本部に充てられた安庭小学校は、続々つめかける開係者で一ぱいとなり県警、岩手県、全日空、自衛隊も同校に現地対策本部を設けその対策に当った。まず遺体の捜索収容作業であるが、当初誤報等により秋田県にもまたがる広範囲な散乱も予想されたが目撃者の証言等により重点を岩名目林道を中心とする前の山一帯にしぼり、捜索を行なうこととし活動が開始されたが、一帯は急峻な山林地帯で潅木、熊笹に覆われた起伏の多い地形で捜素は難行し、このため当日24時までに発見を確認されたものは五十遣体を数えるのみであった。
発見された遺体は次々に収容され、遺体仮安置所とした安庭小学校講堂に安置されたが八千メートル上空での事故発生であり、機体が空中分解し遺体は地面にたたきつけられたもので、その損傷は甚しいものがあり町内医師団はもとより岩手郡内、盛岡市内在住医師等県内の医師団多数の協力を得て収容した。
事の重大さに丹羽運輸大臣、増原防衛庁長官等政府関係者も急拠来町、事態の処理に当った。夜を徹した遺体捜索は翌31日にも引き続き捜索隊は続々駆けつけた東北管区自衛隊員2929人、東北各県機動隊員等703人、町消防団340人等が合せて編成され懸命の努力が続けられた。
この日の気温は最高33度を越す猛暑となり、前日からの不眠不休のため捜索隊の疲労度も次第に濃くなり、文字通り地を這い、草の根を分けての捜索が続けられた。
そして事故発生以来丸1日経った同日午後2時過ぎには全遺体162人の発見が報ぜられ、同日夕刻には全遺体を確認収客することができた。この間、前夜来から急拠かけつけた遺族関係者はまんじりともしない一夜を明かし、次々に運びこまれる遺体の身元確認にやっきとなり、あまりにも変わりはてた肉親との対面にただ慟哭するのみであった。
収容された遺体は検案、縫合、洗浄等の処置がなされると共に次々に白木の棺に納められ遺族の方々により身元が確認され次第町内広養寺、臨済寺を始め盛岡市内の報恩寺、恩流寺等に安置され、その後あまりにも数が多いため県内客所の火葬場及び遠くは宮城県仙台市まで輸送してそれぞれ荼毘に付されたのである。
遺体は損傷があまりにもひどいため身元確認が困難し、一時は二遣体について引き取り手のないものもでたが警察の指紋の照合等によりこれも解決し、8月6日には全遺体を遣族に引き渡すことができた。

9月に入り、機体の残骸が未だそこここに有り当時のすさまじい事故のもようが偲ばれる9月8日、町では自衛隊の協力を得て現地前の山の頂に檜作りの供養塔を建立儀牲者の冥福を析った。その後翌9日を始め数次に亘り今回の事故において125人という多くの儀牲者を出した静岡県富士市関係者を初め遺族の方々が次々に現地を訪問、亡くなられた方々の冥福を祈った。


以上が慰霊の森の事件の全容である。


そして今日に至っては岩手県内はもちろんの事、圏外にもその名を知られる心霊スポットとなった。



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